オッサンの昔話 第6話 ~榎本さん~
場面緘黙症という言葉はここ数年で知りました。
榎本さんは小学校から一緒でしたが、9年間で一回も声を聞いたことがありませんでした。
他にも、中学からの同級生でもう一人、同じく場面緘黙症の人がいました。
こちらも3年間一度もしゃべりませんでした。
当時は究極に大人しい人と思っていました。
声の出ない病気と思っていた人もいたと思います。
でもこれは
社会に対する不安感が強い
↓
萎縮する
↓
だまる
↓
しばらく続く
↓
今さら自分が話し出すとみんながなんていうだろう
↓
ますますだまる
・・・という仮説があるようです。
そのためリラックスできる家庭内では喋れることが多いようです。
口数の極端に少ない友達で、山田くんという人もいたのですが、
榎本さんの大人しさは、山田くんの口数の少なさとはまた違うものでした。
例えば、山田くんの場合は口数が少ないとはいっても、何か話しかければ何か返ってきます。
しかし榎本さんは、話しかけると少し困ったような表情をしてうつむいてしまうだけでした。
そのため、ただの大人しいだけではないんだろうなということですごく印象に残っていました。
最近HSPという言葉もよく目にします。
こちらとも関係あるのかもしれません。
私自身も思い当たることがあります。
今も昔も私は文化系でノンビリしているため、初めて保育園に入ったとき、初めて小学校に入ったとき、他の子供たちの元気さに圧倒されていました。
なので保育園ではよくシクシク泣いていましたし、小学校も低学年のときは同級生の男子が恐くてなじめませんでした。
女の子とばかり遊んでいました。
少し前のエントリーでエネルギーについて書きました。
たまたま自分のエネルギーが生まれつき低く、 たまたままわりのエネルギーが高く、たまたまなじむチャンスがなかった等、たまたまが重なって喋れなくなったパターンが場面緘黙症であると仮定すると、すごくしっくりきます。
私の場合も生まれつきエネルギーが低いのですが、たまたま運よくファミコンという男子全員をとりこにした新しい遊びがあったので、ファミコン経由でクラスになじむことができました。
完全に運がよかっただけです。
保育園のシクシクノリが小学校でも続いていたら、場面緘黙症・・・かはわかりませんが、不登校だったり朝におなかがいたくなる等、何かイレギュラーな症状が出ていたかもしれません。
誰でも緊張すると体が堅くなります。
田舎でシカや猿が車道にヒョイっと出てきたとき、向かってくる車を見て驚いて固まってしまうこともあります。
それの延長で、自分のエネルギーが負けているとき、ウッっと固まってしまうのは、生き物が基本持っている性質なのではないでしょうか。
さて、我々の小中学校は隣同士にあって、小1から中3まで環境があまり変わりませんでした。
そのため、榎本さんの環境は9年間変わることがなかったので、ますます苦しかったろうと思います。
「喋らないキャラ」が定着してしまい、本人的にもますます口を開くチャンスはなかったと思います。
中には意地の悪い人もいました。
意地悪はしなくても、色眼鏡で見てしまうこともありました。
環境が変わることが、場面緘黙症からの回復のきっかけになることがあります。
榎本さんもそうでした。
9年ぶんの「今さら自分が話し出すとみんながなんていうだろう」がなくなりますし、周りのエネルギーも変わりますしね。
これのすごーく軽いバージョンで、「進学のついでにキャラ変更だ!」程度であれば誰にでも理解できるのではないでしょうか。
ちなみに不良っぽくなっていますが、当時は不良がおしゃれであったというだけです。
榎本さん自身がなにかワルだったというわけではありません。
闇子ちゃん 第7話 ~劣等感と支配性~
毒親の毒行動のベースにあるのは劣等感とチキン性です。
劣等感とは自分が劣っているという思い込みです。
劣等感があると自分より格下を作ろうとします。
闇子ちゃんの母親は自分が劣っているという思い込みがあるので、闇子ちゃんのちょっと弱い部分を攻撃して格下認定します。
チキン性とは世の中に対する恐怖心です。
チキン性があると失敗は絶対にしてはならないと思い込みます。
闇子ちゃんの母親は世の中に対する恐怖心があり失敗は絶対にしてはならないと思い込んでいるので、闇子ちゃんのちょっとの失敗を攻撃して正そうとします。
攻撃すればするほど「うちの娘は出来が悪いし失敗ばかりだし劣った人間だ!自分より格下だ!」という認識が強まり、母親の劣等感は満たされます。
実際には闇子ちゃんが劣った人間でなくても、攻撃しているうちに劣った人間であるような気がしてきます。
母親にとって闇子ちゃんは劣っていてほしい存在だからです。
以前描いた共依存の心理と似ています。
「相手がダメであればあるほど自分は嬉しい」のですね。
嬉しさをキープするためには、闇子ちゃんには常に格下でいてもらう必要があります。
そして格下の劣った人間だからどうせいつ失敗するかわからないという思い込みが強くなります。
そのため日常生活を支配し監視するようになります。
支配&監視により闇子ちゃんの劣った部分を探して攻撃できるし、失敗も事前に防げます。
闇の一石二鳥です。
闇子ちゃんは劣った部分を素早く見つけられて攻撃されます。
劣った部分がない場合も、あえて難しい要求を闇子ちゃんにして、当然できないと「ほらあんたはダメだ!」と攻撃します。
失敗は事前にストップされます。
むしろ失敗してなくても先回りしてストップされます。
そうすると闇子ちゃんは母親の言いなりになり、一人ではなにもできない本当に劣った人間になってしまいます。
そしてマジ劣りになった闇子ちゃんを、母親は今後も攻撃できることができて嬉しいということです。
闇の永久機関です。
ここまで書くと、「嬉しい」とか本当か?
そんなヤバイ親いるか?
・・・となると思います。
実はこれは誰にでもある心の動きなのです。
エロ非モテ男子高校生に置き換えて考えてみましょう。
あなたが全く異性にモテない男子高校生だとします。
しかも人一倍エロいです。
すると「自分はブサイクだ!このままオッチャンになっても毎日ちんこいじりだったらどうしよう!わああああ」
・・・と、なります。
これが劣等感&チキン性です。
「自分はブサイクだ!」が劣等感で、
「オッチャンになっても毎日ちんこいじりだったらどうしよう!」がチキン性です。
強力なエロの力ゆえに劣等感とチキン性が発生してしまいました。
ここまでは普通の心の動きです。
そこで同じようなエロ男友達に、恋人ができそうになったとします。
このまま恋人できなかったら20歳の誕生日に一緒にデリヘル呼んで3Pしような!と言い合っていた大親友が、後輩に告白されたとします。
どうでしょう。
「そんなことあるわけない!!何かの罰ゲームじゃねえの!?」
・・・と、親友が高みに行ってしまうのを認めませんね。
まあ普通です。
「お前みたいなドエロ魔人が!?」
・・・と、親友のいけてない部分を指摘しだすかもしれません。
これも普通です。
むしろ後輩のとこに行って
「キミあいつやめときな?エロスエンペラーだよ?デリヘル3Pとか言ってたよ?」
・・・と、攻撃も始めるかもしれません。
全然普通です。あるあるです。
そしてもし、後輩の気が変わって、やっぱり告白はなかったことにしてくださいとふられたら、
「よっしゃああああああああああああああああ!!!!!!!!」
・・・と、喜びます。
もういたって普通です。9割くらいの人間はこうです。ゲス・マウンティングです。
ニヤニヤを隠しながらなぐさめミーティングを始めてしまうかもしれませんね。
自分「まあ、残念だったな!(ニヤニヤ)」
親友「やっぱ男友達がいいな!お前みたいな友達がいてよかった!」
自分「(はー安心安心ニヤニヤ)」
これを親子でやってしまうのが毒親です。
もちろん、エロ男子高校生同士のようなゲスマウンティングを親子でやっちゃうのはヤバイです。
毒親もたまにそれに気づきます。
なのでこう言います。
実際、毒の親子関係は母親と娘で発生することが多いのです。
女性同士、近いもの同士だからです。
強力な劣等感を持っている人は「あなたも同じでいてほしい」と願うものです。
傘よりも、一緒に濡れてくれる方が、うれしい。 pic.twitter.com/G2WBArXt3c
— メンヘラ.jp (@menhera_jp__) November 8, 2018
自然界では劣っていることは死を意味するので、弱者同士協力したいという心理がもともとあるのかもしれません。
さて、これらの思考パターンのベースにあるのは劣等感とチキン性と書きました。
では闇子ちゃんの母親はなぜ劣等感とチキン性を持つようになったのでしょうか?
それは闇子ちゃんの母親もまた、劣等感とチキン性を持つ親から攻撃されて育ったからです。
毒は連鎖します。
以前このエントリーでも書きました。
(この作者には子供がいないので、毒の連鎖先は夫です。)
でも今は毒親とアダルトチルドレンという概念が広まっているので、自分のヤバ面を意識して直すことができる良い時代です。
危ないのは、毒親に育てられていないのに毒要素を持った親になっちゃうことです。
「優秀な人ほどこの傾向は強いんだ」
「なぜなら優秀とは不正解が許されないことだからだ!」
と、漫画に描きました。
日本は先進国です。
先進国ということは優秀な人間が暮らしています。
私は昭和生まれですが、30~40年前と比べてもすごく日本人は民度が上がりました。
優秀度が上がったのです。
しかしこれは、日常生活レベルで不正解が許されなくなったことを意味します。
つまり、普通に暮らしていても劣等感とチキン性が発生しやすいのです。
劣等感とチキン性は毒の素です。
昔は民度が低かったので、みんなタバコのポイ捨てをしていました。
暴走族もいっぱいいました。
先生は殴られていました。
まあ30点くらいの民度でした。
今はポイ捨ても暴走族も殴られる先生も減りました。
80点の民度です。
すると、78点という点数をどうとらえるでしょうか?
このように、80点の民度で暮らしてると、78点というまあまあの点数をとったのに不正解とみなされてしまうのです。
それによって、80点の人間なのに劣等感とチキン性が生まれてしまうのです。
世の中の民度は上がったほうがいいに決まってます。
民度30点の時代は問題だらけでした。
80点に上がったのは大正解です。
残りの20点は、「かわいそうな子供がまだ存在する」という部分なのかもしれません。
でも、80点を100点に上げるのは結構ムリがあります。
30点を80点に上げるのはがんばればできますが。
入試でもそうですね。
なので、残りの20点を上げるより、ちょっと民度下げてラクしたほうが簡単じゃない?
60点くらいでいいんじゃない?
という内容が、このエントリーです。
不良化は救いということです。
不正解を不正解ととらえないようにしたり・・・。
かつてみんなが30点だった時代も、自分らなりに不正解な部分をプラスに変換する意識が発生していました。
自分にも相手にも、不正解!はいダメー!ととらえるのではなく、それはそれでアリ感も持てるといいですね。
・・・すると
「じゃあ不正解がいきすぎて犯罪者になってもいいのか!」
「正解を選ばないでいい大学入れなくて将来ブラック企業しか行くとこなくて首つってもいいのか!」
・・・という考えがシュバババ!とやってきますが、それ自体が病んだ思考パターンなのです。
グレーゾーン、すなわち味とオツが心の健康には不可欠です。
60点でいいんじゃないでしょうか。
オッサンの昔話 第5話 ~越智くん~
以前から何度かこのイラストと一緒に「不良化は救いになる」と書きました。
不良というとアウトローのイメージがまず出てきます。
当時は越智くんのようにゲームでずっと遊んでいるのも結構なアウトローでした。
というのも、「ゲームは脳によくない」という意識が強い世の中だったため、大半の親は子供がゲームで遊ぶことに反対でした。
なので、ゲームをずっとできる=家に親がいないということだったのです。
家のテレビにゲーム機をつなげて遊ぶという時点で、今までの人間界には無い概念でした。
ゲーム機自体、1983年(私が6歳の歳)のファミリーコンピューターが発売されるまでは9割9分の人は見たことのない機械だったのです。
世の親たちからすれば、全く見たことのない機械を使った全く見たことのない遊び方で子供が夢中になっているわけです。
今で例えるなら、子供が鼻にケーブルを差して脳内映像をテレビに映して金星人と宇宙語で銀河マージャンやっているようなものです。
さらにそれを一日中やっていたとしたら。
相当なアウトローです。
それが越智くんでした。
でも初対面でナイフの刺し方を教えてくるぐらいなので、実際ゲームは脳によくなかったのかもしれません。
越智くんは普通にゲームをやりすぎていたので、マリオやドラクエではもはや満足できず、誰も知らないようなゲームにも手を伸ばしていました。
ベラボーマンは レトロゲームマニアには有名だと思います。
元はゲーセンのゲームです。
ゲーム中のギャグセンスに私は頭おかしくなるんじゃないかというくらい爆笑していました。
さらに中学に上がった彼はパソコンゲーム、エロゲーにもはまっていました。
パソコンでゲームができるなんて誰も知りません。
というかパソコンは誰の家にもありませんでした。
むしろ家にあるものではなく、バックトゥザフューチャー的な映画で科学者がカチャカチャやって何か発明をする機械という認識でした。
それが家にあってしかもエロに使うのです。
アウトローです。
エロとはいっても1990年です。
グラフィックはこんなレベルです。
しかし、ゲームといえばマリオやドラクエという中学生にとって、これはものすごい衝撃でした。
やってはいけないゲームをやってる感が半端なかったです。
こういう美少女的な絵もめったに目にすることがない時代でもありました。
そして彼はアングラ文化にも精通しており、見たことのない雑誌、CD、漫画だらけでした。
「GON!」とは、今コンビニなんかに置いてある「実話ナックルズ」の前身雑誌です。
ヤクザとか薬物とか都市伝説とかの、本当だかよくわからない話が載ってるあれですね。
「ジャパコア」とは「ジャパニーズハードコアパンク」の略です。
こういう曲がヒットしていたときに・・・
越智くんはこっちでした。
ざっくり分けると、X JAPANがこの界隈出身です。
※ジャパコアとは本当は蔑称なのですが、言葉としてわかりやすくするためここでは使っています。
山本直樹は今では漫画好きには有名な漫画家ですが、当時はアングラなエロ漫画家でした。
この頃はまだ「オタク」という言葉もカテゴリーもあまりなかった時代でした。
そのため「オタクだったらこういうものを知っておくものだ」みたいなのがそれほどなく、純粋にグっときたものを好きになっていたんだと思います。
私のイメージだと、現在のオタクはSNSがあるので 「今話題のアニメやゲームをみんなで共有する」ことに喜びを見出している気がします。
人と人がつながるツールとしてオタク趣味があるのですね。
一方この頃は「自分の世界を一人で掘り下げる」タイプのオタクが多いイメージです。
基本的に知り合いの範囲は学校しかないので、同じクラスに同じオタク趣味の人がいなければ一人で楽しむしかありません。
他人が介入しないので自分の好きアンテナ重視になり、必ずしもアニメ、美少女、ミリタリーや鉄道、といった定番ルートに夢中になるわけではなかったのです。
そのため、「パソコンでエロゲーム」と「ハードコアパンク」という一見交わらなそうな趣味が「アウトロー」という感覚でつながったんだと思います。
そしてその感覚は彼の心の闇から生まれたものだったのです。
友達やその関係者など、 私と近しい人が何人か逮捕されたことがあります。
初めてが彼の父親でした。
でも中学生ということでまだ子供なので、そんなに衝撃でもありませんでした。
「逮捕」よりも「おねしょが治らない」とか「怒ると茶碗割る」のほうがリアリティがあり、それを彼が他人事みたいに話すことのほうが衝撃でした。
いびつな環境でゲームに没頭パターンは以前の山田くんと一緒です。
山田くんは不良で越智くんはオタクです。
でもそれはたまたまだっただけで、両者にそんなに違いはないと思います。
どちらもアウトローという視点では一緒です。
そしてそのアウトローな世界を心のよりどころにしていたのも一緒です。
大人になる過程で触れる世界は多いほうがいいです。
選択肢は多くあるべきです。
生誕ガチャに失敗して不健康な家庭に生まれても、その多い選択肢の中から自分の居場所を見つけられます。
逆に健康的な家庭に生まれていても、その健康な家庭しか知らないと人としての振り幅が狭くなります。
不良の世界だのエロゲームの世界だのは関わらないほうが安心に決まっています。
しかし、後ろめたいことと知りつつ関わるのをやめられないのであれば、それはもうその人の本質なのではないでしょうか。
闇子ちゃん 第6話 ~偏りちゃん~
「才能とか一言で言われたくない!私は努力しているんだ!」
・・・という言い回しがよくあります。
それに対して
「努力できるのも才能です」
・・・という言い回しもよくあります。
「生まれつき何かに特化した身体能力を持っていてそれを生かしてすごいことをする」
「身体は普通だけど超がんばってすごいことをする」
両方とも才能で、それは偏りから生まれます。
前者は「特化した身体能力」が偏りです。
例えば生まれつき背が高くて、バスケ部を優勝に導いたというようなことです。
後者は「超がんばった」が偏りです。
例えば一日20時間勉強して東大受かったというようなことです。
こういうのはわかりやすい才能&偏りです。
どちらもポジティブな偏りからポジティブな結果が生まれたということです。
漫画に描いたのはそのどちらでもなく、ネガティブな偏りからポジティブな結果が生まれるということです。
闇子ちゃんは病的に気にしい、闇太郎くんは反社会的と、ネガティブな偏りを持っています。
これらは生まれつきのものではなく、がんばって手に入れたものでもありません。
主に環境によって身についてしまった悲しい偏りです。
闇子ちゃんは何度か漫画に描いているように厳しい親から、闇太郎くんも何かネガティブな環境にさらされていたのでしょう。
(発達障害でネガティブな感情が抑えられないというパターンもありますが、ここでは割愛します。)
ネガティブな偏りはなるべく無くしたほうがよいとされることが多いです。
世の中はいろんな「普通こうだろう?」で作られていて、それに合わせると生きやすいようにできているからです。
中学を卒業したら高校に行くのは「普通こうだろう?」だからです。
年収100万の男性よりも年収400万の男性のほうがプロポーズしてOKもらえる率が高いのも「普通こうだろう?」だからですし、
人を刺したら刑務所に行ってつまんない作業をさせられるのも「普通こうだろう?」だからです。
学歴を身につけて、ちゃんと収入を得て、人を刺さないほうが生きやすいですね。
しかしネガティブな偏りを持っていると、偏りが邪魔をして「普通こうだろう?」に沿えません。
そういう人がうまいことやっていく世渡り術が才能だと私は考えます。
闇子ちゃんの場合、「気にしい」の偏りが「細やかなサービス」という才能に転じました。
のんき君は偏りなく普通なのでサービスも普通です。
「気にしい」とは主に「自分が他人にどう見られているか」を気にすることです。
自分が悪く見られることが超ーーー苦痛なのです。
そして他人に超ーーー気を使います。
でもそのほうが客へのサービス力は高まります。
自分を守るためにサービスをするの?客のためにするのが良いサービスじゃないの?となるかもしれませんが、どっちも一緒です。
自分のためにやったことで他人が喜ぶというパターンは多いです。
人気漫画家に「人気の秘訣は?」と聞けば「自分が面白いと思う漫画を描くことです」と言うでしょう。
でも「気にしい」を「細やかなサービス」という才能に変換したところで、他人を気にし続ける部分は変わっていないので、辛いといえば辛いままです。
でも才能は辛さとセットです。
人気漫画家に「休みなくて辛いですか?」と聞けば「辛いです!でも充実してます!」と言うでしょう。
次に闇太郎くんの場合、「反社会的」の偏りが「人気ミュージシャン」に転じました。
のんき君は偏りなく普通なので曲も普通です。
「反社会的」というと犯罪やる人というイメージですが、それはただの結果です。
本質は「普通こうだろう?」と違う人たちのことです。
「普通こうだろう?」の集まりが社会なので、それが守れないから反社会的というだけです。
例えばミュージシャン、漫画家、○○屋(古着屋とか)でもいいです。
こういう人たちは毎月の収入が一定ではありません。
100万円のときもあれば0円のときもあります。
で、メジャー契約したり雑誌に連載したり大きな取引先を得ると、ある程度一定の月収になります。
でもうっかりするとすぐまた一定じゃなくなります。
世の中で仕事をしている人は大半がサラリーマンです。
サラリーマンは毎月の収入がけっこう一定です。
毎月の収入が一定じゃないのがおじいちゃんになるまで続く呪いをサラリーマンにかけると、おじいちゃんになる前に狂います。
あと、サラリーマンは仕事が決まっています。
決まっているというのは、例えば美少女アニメを作る会社だったら美少女アニメ製作につながる仕事を、老人をだましてウソ健康食品を売る会社だったら老人だましにつながる仕事をするということです。
美少女アニメを作る会社で老人をだます仕事はあまり発生しません。
けれど、闇太郎くんの仕事は決まっていません。
曲を作るのが主な仕事ですが、これは何を作ってもいいのです。
自由です。
そのかわり変なものを作れば月収が0円になり、良いものを作れば100万円になります。
変とか良いとかは誰だかわかんない買う人が決めることなので、自分ではよくわかりません。
よくわかんない誰かの変or良いジャッジで毎月の収入が0円とか100万円とかに変動する呪いをサラリーマンにかけると、これまた狂います。
つまり、こういった一連の生活をできている時点で闇太郎くんは異常者です。
これが「普通こうだろう?」と違う人たち=反社会的ということです。
偏りが良い曲を作る才能に転じたという以前に、生活全てが偏りでありそれをできることが才能なのです。
また、「普通こうだろう?」と違う=偏りなので、日常においても普通と違う行動、偏った行動に出ることがあります。
闇子ちゃんみたいな人が不登校やひきこもりになったり、ミュージシャンが薬物で捕まったりすると結構悪く言われます。
「普通こうだろう?」と違うからです。
学校や仕事に行かないのは「普通こうだろう?」と明らかに違いますし、法律は「普通こうだろう?」を集めてマニュアル化したものだからです。
でも、彼らの「普通こうだろう?」と違う=偏りがあったからこそ、細やかなサービスや名曲が生まれたわけです。
偏った人が偏った行動をしただけです。
たまたま偏った行動が不登校や薬物だったというだけです。
学校には行けてるけど家でバッタ焼くのが趣味だったり、薬物はやらないけどカマキリ煮るのが趣味という偏りだったかもしれないのです。
細やかな他人への気遣いもみんなの心を動かす芸術も不登校も薬物もバッタを焼くのもカマキリを煮るのも全部偏りです。
良い偏りだけやって悪い偏りはやらないといういいとこ取りはできないのです。
社会に出れなかったり法律を破ったりは確かにあんまりいいことではないです。
でもそれが絶対に悪だとは私は思えません。
悪だとみなして責めすぎて偏りがなくなることで失われるものはたくさんあります。
偏った本人が、悪い偏りを避けようとしすぎて良い偏りを発揮できなかったらかわいそうです。
闇子ちゃんは今まで出会った病んでる人や偏った人がモデルです。
うちの妻もその一人です。
現在私は妻と二人でお店をやっておりけっこう順調です。
それは全て妻の偏りから来る才能のおかげです。
そしてやはり辛さとセットです。
私は偏りとか才能とかがあるのかはわかりませんが、41歳の現在まで一度もサラリーマンをやったことがありません。
つまり月収が0円だったり100万だったりは日常でした。
それに対して特に不安を持ったことがないので、まあ反社会的で異常者なのでしょう。
闇子ちゃん 第5話 ~キャンディーちゃん~
小さな頃強烈に不足していたものは、ずっとひきずります。
闇子ちゃんは母親の愛情に不足していたので、その後のんき君にいくら愛情をもらっても満たされないのです。
「今」の「のんき君」ではなく、
「あの時」の「あの人」のキャンディーが欲しいのです。
そして「あの時」には戻れないのです。
でもこういう部分は誰にでもあります。
みんな満たされない部分は我慢するか代わりの何かで満たしています。
あきらめるということですね。
しかしこの漫画のように、あきらめきれない場合には2つ理由があります。
1つは、「あの時」キャンディーをもらえなかったことがとてもとてもとても辛かった場合、
もう1つは、今でもキャンディーをくれなかった「あの人」と距離が近い場合です。
闇子ちゃんはビシビシ責められながら育ちました。
キャンディーはもらえません。
とても辛かったのです。
本来キャンディーがもらえるはずの場面でももらえなかったような子です。
1つめの「あの時キャンディーをもらえなかったことがとてもとてもとても辛かった場合」ですね。
もらえるところでもらえないのは理不尽です。
理不尽はトラウマを形成します。
この一連の経験がトラウマになっているのです。
※ちなみに「トラウマ」は「ショックなこと」というカジュアルな意味合いで使われることが多いですが、本来はPTSDやパニック障害につながるような深刻なものを指します。
強力なショックを受けた場合だけではなく、長い期間にゆるーく攻撃を受け続けた場合にも、トラウマに近いものが形成されます。
もう1つの、「今でもキャンディーをくれなかったあの人と距離が近い場合」ですが、これは毒親とアダルトチルドレンでよく見られる関係性で、成長してもお互い物理的もしくは心理的に距離が近くなりやすい、ということです。
簡単にいえば、子離れができないor親離れができなくなりやすいということです。
これは毒親は本質的に自信がない人なので、弱い立場の子供にマウンティングもしくは依存することで自分を保ちます。
この延長が子離れができないということです。
そして子供の側は、マウンティングされれば自信が無くなり、依存されれば親を見捨てられなくなり、どのみち親離れができなくなります。
この関係を共依存といいます。
子離れor親離れができなければ、成長しても親子の距離は 近いままです。
するとどうでしょう、目の前に親がいるから、今日こそはキャンディーをもらえるかも!と期待してしまいますね。
あきらめられなくなり、いっそうもらえなかったキャンディーに執着してしまいます。
ただ、これはそのままの「キャンディーが欲しい!」という行動としては表れません。
このように無意識の執着、「離れればいいのに離れられない」という形がほとんどだと思います。
基本的には、30~40代の男性でいえば就職や結婚をして自立、10代中~後半の女の子であれば反抗期、それぞれ親と距離ができるはずです。
しかし親の側がそれをさせない、あるいは本人がそれをしないのです。
無意識なので気づきづらいです。
100日のうち99日はキャンディーをあげなくても、1日だけ気まぐれでキャンディーらしきものをあげるのです。
100日のうち100日キャンディー無しならまだあきらめがつきます。
1日だけキャンディーもらうともう離れられませんね。
次ももらえるかも!と思ってしまいます。
なんかソシャゲのガチャみたいですね。
99%ハズレでも1%当たりがあるからガチャにはまってしまうという。
この99:1の法則はいろんな依存症にも見られます。
結婚したり自立したりして家を離れても、なんだかんだ理由をつけて干渉を止めない毒親は多いです。
干渉がいけないことと意識している毒親ならば、「あなたのためを思って」という言葉を使い、断れないよう罪悪感をくすぐってくるかもしれません。
いずれにしても心配性や甘やかしとは明らかに異なった「子離れができないor親離れができない」です。
「子離れができないor親離れができない」の一例として、ヘリコプターペアレントという言葉もありました。
漫画には描いていませんが、闇子ちゃんがもし結婚してからも母親がグイグイ干渉してきていたとしたら、
「のんき君×闇子ちゃん」であるはずのカップリングが
「母親×闇子ちゃん」のカップリングになります。
すると当然、
「のんき君がキャンディーくれた!」<「お母さんがキャンディーをくれなかった…」
・・・と、なってしまいます。
漫画ではのんき君は闇子ちゃんが満足しなくても、おじいさんになってもキャンディーをあげ続けます。
・・・が、実際にこれができる人はまれです。
「あの時」の「あの人」のキャンディーを欲しがり続けることは、闇子ちゃんだけでなくのんき君まで不幸にしてしまいます。
親子関係だけでなく、昔の恋人、子供の頃の夢、過去の選択、みんながこの「あの時キャンディー」を持っています。
みんな戻れない過去のことが頭にあるのです。
だからタイムマシンでやってくるドラえもんが国民的キャラクターになったのかもしれません。
オッサンの昔話 第4話 ~比留間さん~
人にはそれぞれ生まれ持ったエネルギーがあります。
生まれ持ったエネルギーとは、生まれつき脳内物質の出が良い/悪い、筋肉量が多い/少ない、血流の良さ/悪さなど、その人のいろんな生き物としての体のつくりで決まります。
私も比留間さんも、生まれ持ったエネルギーが低いです。
以前、「常識は環境で作られる」と描きました。
比留間さんの場合、父からの暴力が「環境」でした。
その環境によって、暴力が常識になります。
エネルギーが強ければ「暴力を与えること」が常識になり、
エネルギ-が低ければ「暴力を受けること」が常識になります。
彼女はエネルギーが低かったので、暴力を受けることが常識になっていました。
そしてそれから数年後、恋人からも暴力を受けていたのです。
闇は連鎖するのです。
普通であれば暴力を振るう人とはあまり一緒にはなません。
暴力が常識になっていたことで、何が暴力なのかもわからないのです。
常識とはそういうことです。
これは手を上げる暴力に限らず、言葉の暴力、態度での暴力など、何でも同じです。
よく、毒親に育てられた子供も将来毒親になりやすいといいます。
これも連鎖です。
「暴力」を「すごい意地悪」と言い換えてみます。
毒親とは子供にすごい意地悪をする親のことです。
そうすると子供はすごい意地悪が常識になります。
エネルギーが強ければ「すごい意地悪を与えること」が常識になり、
エネルギーが低ければ「すごい意地悪を受けること」が常識になります。
そして将来親になった時ですが、子供は弱い存在です。
たとえ自分がエネルギーが低かったとしても、子供のほうがエネルギーは低いです。
なので、「すごい意地悪を与えること」のほうに傾きやすいです。
もちろん、すごい意地悪を与えているつもりはありません。
常識になっているからです。
ちなみに、これは子供相手とは限りません。
配偶者に対し「すごい意地悪を与えること」を出してしまうこともあります。
これも、すごい意地悪を与えているつもりはありません。
以前ブログを書いたおすすめ漫画「ど根性ガエルの娘」の5巻が、そこについての内容でした。
また、自分が成長してエネルギーが強くなった場合、毒親本人に対してすごい意地悪の反撃をする場合があります。
そのうちの一つは「トラウマ返し」と呼ばれるものです。
いずれの場合も、すごい意地悪を受け続けたことでいびつな常識が身についた結果です。
比留間さんはとても気が合う女の子でした。
大人しいけどいつもいたずらっぽくニヤニヤしていて、こちらのしょうもない興味ないような話もニヤニヤしながら聞いてくれて、ちょっとひねくれたような返しで笑わせてくれるのです。
エネルギー低い者同士、一緒にいてとても安心する人でした。
エネルギーが低いからこそ、受身のコミュニケーション力が身についていたのでしょうね。
そしてエネルギーが低いからこそ暴力に対して無力だったのです。
彼女の生まれつきの特性が、彼女の良さにも不幸にもつながっていたとすると悲しいことです。
もう一つ、「見捨てられ不安」という心の動きがあります。
これは親が子の存在そのものを雑に扱うことで起こります
雑に扱うとは「すごい意地悪」もそうですし、逆に「無関心」にもあてはまります。
子供は親に執着します。
これは本能です。
野生であれば子供は親と一緒に行動しなければ飢え死にしたり他の動物に食べられてしまうからです。
その親に雑に扱われる=見捨てられるとしたら、野生では子供は死んでしまいます。
なので、それを避ける本能によって子供はどんなに親が雑でも受け入れてしまいます。
これが執着です。
親から雑な扱いを受けていると、いつ自分が見捨てられて飢え死にしてしまうかという恐怖を持ち続けます。
そしてこれは親だけでなく社会からも見捨てられる不安に発展します。
子供が小さかった頃、親は社会の全てだったからです。
これが見捨てられ不安です。
そして見捨てられないために、相手を受け入れます。
どんなに暴力を受けても、受け入れていたのが比留間さんでした。
いびつな常識も見捨てられ不安も、成長していろんな人との関わりの中で「これはおかしい」と気づくことが多いです。
・・・が、以前の共依存ちゃんの回で描いたように、いびつな常識を持っていると、いびつな人と相性がいいです。
そのため、いろんな人と関われるはずがやはりいびつな人とばかり関わっていたということも多いです。
その場合、いびつな常識には気づけません。
ちなみに比留間さんはビジュアル系ファンでしたが、他にも今までに何人かビジュアル系ファンの子と知り合いました。
私の妻もそうでした。
みんなだいたい病んでました。
「かっこいい」とは絶対的なものです。
不安定な人ほど絶対的なものに惹かれるのかもしれません。
90年代の後半にビジュアル系ブームがありましたが、それも世紀末だし景気も悪くなってきたしということで不安定な人が多かったのかもしれません。
比留間さんは中学のときはBUCK-TICK(バクチク)というバンドのファンで、後に再会したときはROUAGE(ルアージュ)というバンドも追いかけていたようです。
でもグイグイと推しメンについて熱弁するわけではなく、私のわかる範囲で話してくれるのが、エネルギーの低い彼女らしかったのを覚えています。
バクチクは私も中学から現在まで好きです。
それは比留間さんの存在があったからというのも大きいです。
新作が出ると、比留間さんもまだ好きなのかなとちょっと考えます。
闇子ちゃん 第4話 ~共依存ちゃん~
共依存とは・・・
(+o+)「相手がダメであればあるほど自分は嬉しい、なぜならダメ人間の世話をすることで自分の価値が上がる気がするから」
( ^)o(^ )「よっしゃ好き放題したろ!」
・・・の、関係です。
( ^)o(^ )は(+o+)に依存し、(+o+)は( ^)o(^ )の世話をすることに依存するということです。
お互いの関係性に依存し合っているので「共」依存なのですね。
「ダメ」の定義もさまざまで、この漫画では
A:彼氏が私を殴ってくるというダメさ
B:闇子ちゃんは一人では何もできなくて僕がいないと生活が破綻するというダメさ
・・・を例に出しました。
Bは結構思い当たる人は多いと思います。世話好きの行き過ぎたパターンですね。
最初の文章にあてはめると・・・
(+o+)「相手がダメであればあるほど自分は嬉しい、なぜならこの人はダメ人間で一人では何もできないし僕がいないと生活が破綻するからその世話をすることで自分の価値が上がる気がするから」
( ^)o(^ )「よっしゃ好き放題したろ!」
・・・という感じです。
どちらも好きでやってることなので、比較的問題は少ないです。
問題ある部分は3点です。
1点は、闇子ちゃんは成長しないので、もしも世話係の僕がいなくなったら詰むということです。
30歳になっても40歳になっても一人ではなにもできないままです。
2点目は、闇子ちゃんがもし「このままじゃダメだからがんばろう」となった時、僕がそれを阻止するパターンがあるということです。
闇子ちゃんが成長しちゃったら、僕は自分の価値を上げるために闇子ちゃんの世話ができなくなっちゃいますからね。
そして3点目の問題は、世話が自己犠牲になり、それがいきすぎるパターンが存在することです。
極端な例えにすると、闇子ちゃんがこの後結婚してもダメなままで、ゴロゴロしてムダづかいばかりするのに就職せず、僕の給料だけでは生活費が足りなくなるとします。
しかし僕は闇子ちゃんのために働くのが生きがいだし、自分の価値も上がるので、闇子ちゃんが「これじゃダメだ就職しよう!」となっても、就職させません。
成長されると世話ができなくなるからです。
そして僕は生活費を稼ぐため副業も始め、働きすぎて病気になります。
そうすると、僕がいなくなった闇子ちゃんは詰みますね。何も一人ではできません。問題の1点目につながるのです。
当然ですが、闇子ちゃんと僕の性別が逆になったパターンもあります。
ぐうたらな男性と尽くしすぎる女性ですね。こっちのほうが多いかもしれません。
ただ、闇子ちゃん的な人と一緒になる場合、 多少この要素を含んだ関係のほうが幸せではあります。
個々が自立した個人であろうという関係を目指すと、闇子ちゃんは人一倍寂しさと不安感を感じる場合があるのです。
この関係に問題が起こるのは、「僕が僕のために闇子ちゃんの世話をしている」という要素がある場合です。
なので、「僕が闇子ちゃんのために闇子ちゃんの世話をしている」という意識を持てば問題は起きません。
闇子ちゃんの世話もするけど、自分をまず第一に考えるということですね。
問題だらけなのはAのパターンです。
A:彼氏が私を殴ってくるというダメさ
ですね。
最初の文章にあてはめると・・・
(+o+)「相手がダメであればあるほど自分は嬉しい、なぜなら私を殴ってくるというダメ人間の世話をすることで自分の価値が上がる気がするから」
( ^)o(^ )「よっしゃ好き放題したろ!」
・・・と、なります。
あまり理解できない関係に見えますが、闇子ちゃんはこのパターンの人とくっつく可能性が最も高いです。
DVされてるのになぜか別れない、というパターンですね。
DVというと大ごとですが、DVは暴力を使った支配のことです。支配とは縛りのことです。縛りを言いかえると束縛です。SMクラブで物理的に束縛されるのはドMの人です。
「自分は束縛されると愛を感じるな~」
「自分、じつはドMで・・・」
こう言うミニミニ支配を好む人は多いですよね。
つまりDVとまではいかなくても、ミニミニ支配&支配される要素を持った人は世の中にたくさん存在するということです。
最初はちょっとした束縛でも、だんだん強い支配性を見せてきて、ひどいときは暴力もプラスされる、という流れです。多いです。言葉や態度での暴力も多いです。
もちろんあくまでミニミニ支配の範囲で、受けてる本人も幸せなら問題はありません。
こういうレベルの嫌さになってるのに別れられないとなると問題ですね。
ここから・・・
こうなると共依存です。脅されて別れられないのではなく、自分から関係キープを望んでいるのです。
その原因は低すぎる自己肯定感です。
苦労しているほうが安心するということです。
自分は無価値だから苦労して初めて価値が生まれる、ということです。問題です。
単純に自分磨きのための苦労をするのが好き、なら問題はありません。
そのためこのパターンの闇子ちゃんは、一般的には「いい人」が多いです。世話好きで尽くすタイプです。
世話好き&尽くしに、病的な自己否定もしくは自己犠牲が入り、DVくんにつかまるとAパターンの共依存関係になります。いいことは一つもありません。
闇子ちゃんは毒親育ちです。
毒親とは子供的思考の抜けない親です。
そのため闇子ちゃんは親に気を使いながら育ち、しっかりせねばという大人びた「親的思考」が強くなることがあります。
その場合「子供的思考」のやばメンと相性がいいです。
(+o+)(親)「相手がダメであればあるほど自分は嬉しい、なぜならダメ人間の世話をすることで自分の価値が上がる気がするから」
( ^)o(^ )(子)「よっしゃ好き放題したろ!」
こういうことです。危険ですね。
ちなみに、DV関係から抜け出せないもう一つの理由に1>99の性質があります。
共依存とは別の話なので、ここではリンクのみで説明は省きます。
ある程度の共依存関係は闇子ちゃんにつきものです。
うちの妻も闇子ちゃんの一種ですので、我々夫婦も軽く共依存です。
私が闇子ちゃんの世話に喜びを見出すパターンですね。
世話にはまりすぎて、ふつうなら休む場合でも休めません。
一応、妻の成長を願ってはいるので、完全なるバッドエンドにはならないと信じたいです。
闇子ちゃんは環境により欠落してしまった部分の多い人です。
なので欠落の部分を埋めるために何かに依存することはよくあります。
・・・というか、害がなければ依存したほうがいいです。そのほうがらくです。
・・・で、人間に依存する場合は、依存される側が激しい共依存にならないよう気を付けてあげればいいのです。
最後に、これは男女間だけでなく、親子間にもよく表れます。
子供が歳をとっても自立しないのに、親が世話しちゃうパターンですね。
昔だったら「ひきこもり」、「ニート」、
最近でも「8050問題」とか「子供部屋おじさん」とか、名前をつけて話題にされることが多いです。
もちろん、必ずしも共依存関係というわけではありません。
基本的には精神疾患があるとか、勤務先がブラックとか、仕方のない理由が多いんだと思います。
しかし、子供にはいつまでも頼りなくて世話が必要な子供でいてほしいと、無意識に願ってしまうパターンも多いです。
共依存関係のバッドエンドは、相手や自分のためにやってると思ってたけど結局両方つらいことになったという流れです。
その流れの底にあるのは「情け」です。
情けは人間ならではの心の動きです。
野生動物はもっとコスパ重視です。
共依存とは非常に人間らしい負の側面なのかもしれません。